今井四郎兼平の故郷 信濃国筑摩郡今井郷


 「今井四郎兼平」と「荒神宮」との関わりについては『諏訪形誌』 45ページから47ページにかけて述べられています。まず、そちら をご一読ください。兼平の所領は「信濃国筑摩郡今井郷」にありまし た。その今井郷(現在の松本市大字今井)の地を訪ねてみました。 

1 今井四郎兼平
 木曾(源)義仲の配下には武勇に優れた武士が数多く集まっていました。今井兼平や樋口兼光、根井行親、楯親忠など、後世「義仲四天王」と呼ばれる武士をはじめ、手塚光盛や足利義清などの豪傑たちが揃いました。そんな豪傑たちの中 でも、義仲から特に厚い信頼を寄せられていたのが今井四郎兼平です。

 兼平は木曾の豪族、中原兼遠の四男として生まれました。兄は樋口兼光であることが『平家物語』で確認できます。また、巴御前が兼平の妹であると『源平盛衰記』に書かれています。落合兼行が弟であるとする説もありますが、その真偽のほどは不明です。

 兼平はのちに主君となる義仲とは年齢が近く、二人は乳兄弟としてともに育ちます。その後、信濃国今井に領地を得たことから「中原」から「今井」と改姓して、「今井四郎兼平」と名乗りました。

 信濃国筑摩郡今井郷(現在の松本市大字今井)での兼平は、近くを流れる鎖川からの用水開発や、梓川から野尻への用水開発なども行っていて、源平合戦に従軍するまではこの地の開発領主だったと考えられます。また、松本市今井には兼平が再建したと伝えられる「平城山宝輪寺」があり、兼平の位牌も祀られている ことは「諏訪形誌」本文にも書かれています。

 その後兼平は、「治承・寿永の乱」で治承4年(1180)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月の「横田河原の戦い」で城助職を破ったことを皮切りに、般若野の戦い、倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いなどで平氏軍を次々と破っていきました。同じ年の7月には平氏を都落ちさせて義仲と共に入京しました。この年の11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかったと記されています。

 元暦元年(1184)正月20日(旧暦)、鎌倉軍に追われて敗走する義仲に従い、粟津(琵琶湖の畔にある地名)の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害しました。享年33でした。

 兼平には三人の子どもが確認できています。長男、兼連の墓所は立科町芦田にあります。長野市御厨(長野市今井地籍の東隣の地区)にある今井山讃楽寺は次男兼之によって創建されました。また、三男の幼名熊丸は長野市鬼無里の山角城を築城したと伝えられています。

 文献によると、義仲と兼平の死後、今井兼之(兼平の次男)らが巴御前と義仲の三男義基を匿って群馬県渋川市箱田に落ちのびたとされています。ただ、巴らが落ちのびた先は北陸地方である、という説もあるようです。また、巴の供養塔と伝えられている「五輪塔」が上田市富士山に建てられていることにつ いては、『諏訪形誌』46ページでご紹介させていただいたとおりです。

 群馬地域学研究所の手島仁さんから、『諏訪形誌(web版・DVD版)』について、次のような情報をお寄せいただきました。ありがとうございました。

 …諏訪形誌を拝見し、今井四郎兼平が出てきました。一族のものは群馬県へ落ち延び、前橋市に隣接する旧北橘村下箱田(渋川市)に土着しました。同地に今井一族が住んでおり、本家、木曽神社、醸造業などを営んでいます。群馬県内の今井姓はその末裔であると言われています。…




2 松本市 大字 今井
 松本市の南端、塩尻市、朝日村、山形村と境を接するあたりが「松本市大字今井」です。山を隔ててはいるものの、木曽地域とも地理的に近く、結びつきのある地域と言えるかもしれません。このあたり「信濃国筑摩郡今井郷」は、今井兼平が住んでいた場所で、兼平の主君にあたる源(木曽)義仲が育った地であるとも考えられています。


3 諏訪神社

 諏訪神社(今井諏訪神社)には大正4年(1915)の 神社合併によって、諏訪神社、八坂神社、八幡神社の三柱が合祀されています。境内には寛延3年(1650)に造 立された「諏訪神社」、棟札に寛政二庚戌年(1790年) とある「八幡社」、嘉永四辛 亥年(1851)に建て替えら れた記録の残っている「八坂神社」の建物などがあります。

 明治元年(1868)、この神社北側の「五行田」地籍のクヌギ林の中から「今井四郎兼平形見石」と呼ばれている石碑が発掘されました。この石碑は江戸時代の作と考えられるもので、一旦八幡神社に運ばれた後、大正4年(1915)に現在の場所に移されました。「今井の文化を学ぶ会」では「これが本当に兼平の形見なのかどうかについてははっきりわからない」としていますが、兼平を供養したものとみることもできるかもしれません。




4 宝輪寺

 平城山宝輪寺は松本市今井にあり、今井四郎兼平によって再興されたと伝えられている 真言宗の寺で、本堂内には兼平の位牌も祀られています。

 宝輪寺の創建は明らかではありませんが、天 平年間(729年〜749年)に光明皇 后が筆写したものとされる法華経が最古の寺宝として 伝えられています。平安時代初期、弘法大師御 巡錫の折り、この寺に立ち寄った時に描いたと 伝えられる「不動明王」を本尊として祀り、山号を「平城山」と称したといわれています。

 その後荒廃してしまったこの寺は、安元・治承(1175年〜1181年)の 頃、この地に住んだ今井四郎兼平によって再建され、兼平は「中興の開基」とな りました。慶長年間(1586年〜1615年)、僧廣覚が中興の開山を行い、江戸時代後期には多くの僧を養成し、隆盛をほこりました。

 境内には四国八十八カ所の霊場から加持された砂があり、霊場各寺の本尊を勧請した石仏霊場として知られています。また、ボタンの名所としても有名です。


四国霊場の石仏が並ぶ宝輪寺の境内


コラム 謡曲「兼平」の碑
 謡曲「兼平」は木曾義仲の忠臣、今井四郎兼平の最期を描いた物語です。あらすじは、義仲の霊を弔うために、木曽の 僧侶が義仲最期の地、粟津ケ原を訪ねたところ、兼平の亡霊 が現れ、義仲が討ち取られたという知らせを聞いた兼平が、 太刀を飲み込み、馬から真っ逆さまに飛び降りて自害したという合戦の様子を僧に語ったというものです。
         −謡曲史跡保存会の資料から−

     右の写真は宝輪寺境内にある謡曲「兼平」の碑





コラム 中原家
 宝輪寺に隣接する場所は今井兼平の 父、中原兼遠の住居跡があった場所と考えられています。現在でもよく見ると、土塁の跡を確認することができます。また、このあたりは「歴女ブーム」の頃には(旗を持った)観光客が大挙して押し寄せていた場所でもあったそうです。

 数十年前までは、この土塁の外側は深くて大きな堀になっていて、冬場にはスケートもできた、と中原昌明さんが話してくれました。昌明さん本人は「はっきりしないので…」と話しておられましたが、中原兼遠の遠い子孫にあたる方のようです。


5 兼平神社
 松本市今井には「績麻(つうそ)神社」「兼平神社」という名の神社があります。 「績麻神社」は近くにあった別の神社がこの場所に合祀されたものです。

 この神社には今井兼平と大鶴鷯尊(仁徳天皇)が祀られ ており、「兼平神社」「兼平様」「若宮社」とも呼ばれていますが、ご近所の方々は「兼平様」と呼んでいるようです。

 社伝によると、この場所は兼平の住居跡で、社の前の道は兼平が尊崇していた「西洗馬薬師堂」への参詣道で もあったと伝えられています。兼平は毎月、この道を通って薬師堂に参拝していたと言われている、と宝輪 寺住職の奥様が話してくださいました。今井神社から薬師堂への旧道は「やくしみち」と呼ばれ、道沿いには薬師堂への道を示す石標が多数見られます。

 兼平神社の境内には粟津ケ原にある兼平の墓地から持ち帰った土を祀った「兼平塚」もあります。


6 光輪寺観音堂

 県宝にも指定されている「西洗馬薬師堂」は青壺山光輪寺のすぐ南側にあり、棟札の記載から宝暦10年(1760)に建立されたものであることがわかっています。少々傷みは目立つものの、 堂々とした造りの堂宇や多数の石仏、珍しい自然石に浮き 彫りにした閻魔像や脱衣婆などでも知られています。

 堂内には本尊の薬師如来像のほか、日光菩薩像、月光菩 薩像、四天王像、十二神将像など、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた仏像が安置されています。

 また、この薬師堂は木曾義仲が新たな堂宇を建立して平家追討の祈願をした場所とされていて、その際、サクラの若木を植樹したとも伝えられています。この時植えられたサクラは周囲8mを越える大木に成長しましたが、残念ながら明治34年(1901)枯死してしまいました。現在のサクラはそのときに植え替えられたものとのことです。



西洗馬観音堂境内に見られる石仏群


 兼平神社(兼平の館跡)から観音堂への道沿いには多くの石仏などが見られます。